キセイノセイキ展に対する沢山さんの厳しい批評が美術手帖に掲載されました。展覧会が開いて1ヶ月以上いろいろ穴が開いたままだったので、このような批評になるのも当然だと私は受けとめています。しかし、この展覧会は全く普通の展覧会ではなく、その裏では現在進行形で様々な摩擦や葛藤や苦悩が山のようにあります。その部分は全く展覧会場内では語られてきていませんので、沢山さんの評のベースになっている推測に対して、私たちは情報を追加し、穴を埋め合わせなければと思います。
まずは、沢山さんの推測としては、当初、アーティストの労働環境や生活に焦点が当てられていた展覧会のプランがあり、会田家撤去問題があって、急遽プランが練り直され(自主)規制や検閲がテーマの展覧会に変更された・・・
と推測されていますが、事実は違いました。もともと表現の自由や検閲を扱った展覧会プランがすでに議論されていました。
MOTアニュアル展をキュレーターの吉崎氏と協働企画するにあたって、アーティスツ・ギルドという団体の性質上、展覧会のテーマは多くのアーティストに共通するテーマでなければならず、さらにアーティストの制作・発表環境の改善自体をテーマとするしかない。具体的には、労働やお金の問題を扱う展覧会にするか、それとも表現の自由を扱う展覧会にするか、どちらかだと私は考えました(あくまでも私個人の考えです。アーティスツ・ギルドの総意というものは存在しません)。
しかし、アーティストの労働やお金事情の展覧会をするには、組織内のお金の流れも扱わなければならなくなる可能性があり、そのような展覧会の設計は相当ハードルが高い、と。それでは表現の自由や検閲などを扱った展覧会はできないかということで、議論がすでに進められていた状況でした。
その折に、会田家作品撤去問題が起こった。私たちの問題意識がそのまま形となった事件なので、すでに問題提起がされたと思えば良いのですが、正直展覧会を作るタイミングとしてはあまり良いタイミングではないと感じました。そして実際火に油を注ぐような構図の中、相当の警戒態勢の中で展覧会は作られていき、今日まで至っています。一つの作品を決定し、その許可を得るのにどれだけの労力と時間が費やされてきたことか。一枚紙を展示空間に置くことにどれだけのエネルギーとストレスが費やされてきたことか。普通の展覧会を作るプロセスではありませんでした。そして、その裏でどれだけの欲望が断念されたか。それでも、美術館はこの展覧会企画を許諾し、数々の摩擦の中、展覧会は作られていきました。
そんな中、「検閲」を扱った展覧会ではなく、アーティストも含め誰もが様々なレベルで加担している「自主規制・自己検閲」自体を扱った展覧会にするという方向性が決定されます。「事件」として突然襲ってくる検閲ではなく、日々の現場で水面下で様々な形で行われている自主規制・自己検閲 ー 空気を読みつつ、議論をすりかえつつ、欲望を諦めつつ、評判を恐れつつ、日常的に行われている。沢山さんの文章にならって言うならば、アーティストの欲望は水面下の交渉で常に去勢され、諦められというのがアーティストの現場のリアルな状況です。そしてその状況を正確に捉えるのは非常に困難な問題です。鷹野さんの件は警察による介入ですので明らかな公権力の圧力による検閲であり別の問題と私は考えますが、会田さんの件は、東京都現代美術館という美術館の構造上の問題で、ほぼ地続きにあり、手続き上それが事件として表出したか否かの違いなのではと私は感じています。
ですので、この展覧会ではアーティスト、キュレーター、美術館にとっての自主規制・自己検閲とはどのようなメカニズムによって起こるのかにフォーカスし、その捉えどころのないもを可能な限り可視化することを試み、そこから発展して、メディア、教育現場、ネット空間などでの状況をも鑑み、観客誰もが自らの環境を取り巻く様々な規制、規律、規範、不文律、空気について意識を巡らせるような展覧会にしようという大きな野望が掲げられました。その野心がどこまで形になったかは、ちゃんと批評していただく必要があると思いますが。この明確な出発点を今までちゃんとした形で語られてこなかったことは我々の責任でありますが、とりあえず誤認されている部分に対する説明は以上です。
そして、規制の痕跡を残すことが、パフォーマンスとしてフィクションとして回収されてしまうのか、それともそのような行為が問題の可視化の一つとして有効な態度なのか、それは無人島プロダクションで行われる「空気」展の実践を通して、私も考えたいと思っています。
(MOT会場内で「空気」のキャプションにちゃんとした事情の説明が現在ないのは、明らかに穴で、褒められた穴ではありません。)